世界的にも権威と認められるドクターが、「親父までにはマダマダ」とおっしゃっています。ご本人の謙虚なお気持ちもあると思いますが、やはり親を見て子は育つんですね。 私のほうはというと、自他共に認めるダメ親父でしかありません。せめて反面教師として子が育ってくれればと願うばかりです。 (管理人)

msn産経ニュース 2013.4.10 07:56
 より

 天皇陛下の心臓手術を執刀した心臓外科医として知られる天野篤さん(57)。手術成功率98%の確かな腕が世界的に評価される一方、3浪して医学部に進学し、出世410街道以外の道から大学教授に上り詰めた異端の経歴が注目を集める。

 信条は「向き合った全ての命に全力を尽くす」。学歴よりも実力と人間力で患者さんの命を救ってみせる。そんな熱血医師を育てたのは父、甲子男(かしお)さんだ。

 甲子男さんは大正生まれの旧国鉄マン。終戦後の高度経済成長期には石炭やガスを扱う燃料商として働きながら、妻、よ志子さん(91)とともに3人の子供を育てた。


「新聞、雑誌、小説など書物が好きだった
父は、僕にも本だけはたくさん買ってくれた」
と話す天野篤さん(清水麻子撮影)

 感受性豊かで、歴史書などあらゆるジャンルの本を読むなど博学な一面もあった甲子男さん。旧制中学時代、戦争に動員されて大学進学は諦めたが、学歴よりも大切なことがあることを背中で教えた。

 天野さんの思い出の中に出てくる父は働き盛りの40代。顔を真っ黒にし、倉庫からガスボンベを軽トラックに積んでは「今、届けないと困る人がいるから」と、夜遅くなっても軽トラをお客さんの元に走らせた。

 「商売なのに、そこには商売っ気が全くなかった。僕は車の番をしながら、いつか父のように働けたらいいなと思ったものです」

 家族や仕事仲間を大切にし、町内会活動にも熱心に取り組んだ。子供たちに「勉強しなさい」「医者になりなさい」などと言ったことはない。そんな広い器に支えられ、天野さんはのびのび育った。

 しかし、天野さんが高校2年のとき、甲子男さんは心不全を繰り返し、心臓弁膜症と診断される。父を思う一心で天野さんは心臓外科医になった。しかし、平成2年、「この病院でならば」と熟慮した3度目の手術先で父は帰らぬ人となった。

 しばらくはショックで立ち上げれなかった天野さんだが、どん底からはい上がらせてくれたのも、やはり父。「篤、私の分まで人生を生き抜くんだ。そして、人を助けるんだ」。そんな声が聞こえた気がし、父の死を絶対に無駄にしない決意をする。

 「人生で大事なのは身の丈でできる仕事をきちんとし、周囲に思いやりを持って接すること。そして、余力は周囲や社会に配ること。父が体現した教えを大切にしていきたい」

 父の死から20年以上が過ぎた今も、天野さんの心の中に父は生き続けている。(清水麻子)

                   

 ≪メッセ-ジ≫

 親父(おやじ)の器の広さ、包容力、慈悲深さは本当にすごいと思う。いつか僕も親父を超えたいと思っているけれど、まだまだです。

                   

プロフィル天野甲子男

 あまの・かしお 大正13年、埼玉県出身。旧制粕壁中(現埼玉県立春日部高校)卒。中学時代に戦争に動員され、終戦後は旧国鉄で働く。昭和47年に心臓弁膜症を発症し、平成2年11月、66歳で死去。

                   

プロフィル天野篤

 あまの・あつし 昭和30年、埼玉県出身。日本大医学部卒。亀田総合病院(千葉県鴨川市)などの民間病院に20年近く勤務。昭和大横浜市北部病院循環器病センター長・教授を経て平成14年、順天堂大学医学部教授。著書に『一途一心、命をつなぐ』(飛鳥新社)、『この道を生きる、心臓外科ひとすじ』(NHK出版)。